昭和40年07月19日 夜の御理解
夕方、ここの秋永先生が、入って見えて、昨日も、ここで御造営のことを打ち合わせなさっている。昼からずーっと見えとった。それでその、御月次祭頂いて、夕べの夜中一時ごろまでだったでしょうか。いわゆる検討しておる。今日も図面を本当にま少し、あの、厳密に研究したいというので、又、二、三人集まることになっておる。そうですね、図面を今日、取りに来られた。
しかし、本当に大変なことですねえ。やはり、そういうことをなされる為には、そういう風にして、打ち込んでいる人達が、幾人もなからなきゃ出来ることではなかですね。そのことに、打ち込んでおられる。ですからです、その打ち込んでおられるんですけど、私どもが、その、迂闊にしてということが有るんです。今日そんな風にして、お茶、もう先生、今日はなんにも頂きません。
すぐ帰りますよって、また、それにかからんならんから、といって、んなら、白湯だけでも飲んで帰りなさいと言うて、白湯を出してから帰った。自動車に乗ってから動き出してからですね、あら、ほんに秋永先生は、ズボンを取り来たが、ズボンをもっとらっしゃらんごたったが、自動車ん中に入れたじゃろうかと思うて私が、「あんた、ズボンなもっていきよっとね」(笑い)「もってない」げな。
もうわざわざ福岡からここまでズボンとりに来とってからですたい、それでまた持たんで帰りよる。けれども私は信心させて頂きよる者がですたい、例えば私のところの御造営というものに対する熱意というようにです、お互いの信心の熱意のありゃこそ、朝参りもすりゃ日参りもするんですこうやって。朝参り日参りさして頂いておってもです、果たして持って帰るものばもって帰れるだろうかと、私は思うんです。
もう、「ちょいとあんた忘れとりゃせんね」ち、言うたら、もう、「私はなにをもって帰りよるじゃろうか」という人が私はあるんじゃなかろうかと思う。どうでしょうか。んならね、願いじゃ、嘆くじゃない、いつも御造営に対する熱意というものを秋永先生が持っておいでられるから、もう、一昨日も、昨日も、今日もという、もうかかってなさっておられるんだけれども、肝心要のものを持って帰っていない。
迂闊、迂闊といわれますね。私はもう、折角、椛目にお参りさしてもらいよる、折角、御祈念をお参りさせて頂いてから、ね、熱意がありゃこそ御祈念にお参りしてきているんだから、頂いて帰りよる、持って帰りゃよかといわれるときに、はあ、「確かに頂いて帰りよります」というようなものが無かったら、私は本当に馬鹿らしいことだと思う。その熱意は買いなさいましょうね神様が。「ああ、熱心なことだ」と、一足でもこちらに足を向けて来りゃ、一足でも無駄にはさせんと仰るくらいなんですから。
けれども、私共、折角迂闊にして、その、持って帰るものを持って帰らんで、あってはおかげにならん。有難く頂いて持って帰れば、船にも車にも積めぬほどの神徳があるという。ね、神徳の頂けれるところにそれを、頂いて帰らにゃいけん。ただ、お願いして帰るから、おかげだけは頂いても、神徳になるものを頂いて帰らない。ね。そういう意味で私は、ここ、四、五日私が、皆さんに申しておりますように、ね、
いわゆるお腹を撫でるということ。心をさするということ。こりゃ寝てからだけじゃない、御神前にいたからじゃない、こげなお届けじゃない、何時ももうほんと、本当にですね、お腹を撫ぜだします、要は、心を撫ぜ出しますとです、心を撫ぜ出しますと、もう、ほんとに迂闊にしてることに驚くくらいにです。それは病気だけではありません。ね、難儀な問題、そしてどのような問題でもです。
要はおかげは和賀心とおっしゃるのですから、要は自分の心を撫でさせて頂いているうちにです、「ああ、こいう心ではおかげ頂かん」「ああ、こんなことではおかげにならん」ね、自分の心の中から、おかげに向けられない。例えば、四神様がおっしゃるように、信心さしてもらうものは、先ず「にくいかおりを取らにゃいかん、教え教えを取らにゃいかん」と、おっしゃる。
「恨みにたい、つらみがおかげにならん」と、仰る。ね「ねたましく思う」と「恨む」とか。「憎む」とか。「惜しい」とか、「欲しい」とか。「憎い」とか「可愛いい」とか。可愛いとは目の中に入れても痛くないと言った様な猫可愛がりに可愛がることがあるでしょう、あのことです。皆が可愛い。どれもこれもが一様に可愛いというのが神心。今日でも、特定のものを、可愛がるというのは、これはおかげを頂かない心。
難しいことなんです。けどああ私の心ん中には、今誰それを誰それだけは可愛いてたまらんという心が起こっておる。これではおかげにならん。はよもみながらそれを取り除くことが出来るんです。ね。「憎い」「可愛い」「惜しい」「欲しい」ね、そう言う様な、おかげの受けられない在りとあらゆる、おかげを受けられない心なんです。そういう心を自分の心から、こうして心を撫ぜているうちにそれを感じる。
さあこの手が素晴らしい。特に私が左の手というのは、いろいろを集中するということの意味になるか。椛目は左とこういうことになっているから、左の手に私がいつも左を感じておる。左に御結界がある。左のことは椛目のことだ。というふうに椛目の信心です。いうならば。これに集中する。この手で撫でるもんですから、痛みが止まるはずなんです。ね、動かにゃそん時は、長いこと動く様になる筈だということになるでしょう。おかげは、和賀心と仰るのですから。
これは例えばです、ね、病気とかそのようなことだけではありません。金が足りないとか、人間関係のもつれとかと、難儀と、あらゆる難儀にこれは、応用が出来るのですよ。そういう意味合いで、これは非常に私共が、迂闊にしていることが、秋永先生の立ちがけにですたい、おかげを頂きまして、有難うございますと言うてから、お腹だけ撫でとったら、今日朝でれんとしょうばってん、お腹だけ撫でておらっしゃったのに違いない、拝むだけは拝んでで行った。
ところが私だけするもんじゃから、私があれだけあんた持って帰りよるかち、わざわざ福岡からここまで来てからです。ね、迂闊にしてまた取りに来んならんと言った様な事になりかねない。皆さんこうやって毎日朝晩お参りになる。ね「ほらまたあんた、忘れて帰りよらせんか」と「うっかりしておりました」と。迂闊にしておると。そしてそれを頂き漏らして行き、また、同じことを同じ物を取りにこなければならないと言う様な繰り返しではです、おかげは受けていってもです。
有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬほどの神徳があると仰る、その神徳に触れることが出来るわけです。どうぞいよいよこの、心を撫でる運動とでもいうでしょうか、心を撫でる運動です。これを一つ本気でお互い試してみるというようなことではいかん、やっぱり本気で、それを行じて見なければいけん。一遍撫でたばってん、効かじゃったというようなことではなくて、これを繰り返し繰り返し。
一遍撫でて効かじゃった時にはです、自分がまあだ、和賀心の中から、そういうおかげの受けられない、憎いとか可愛いとか、恨むとかつらむとか、惜しいとか、欲しいとかいったようなものが、通るとこを通らんから、この時、効かんのだということを、悟らしてもろうて、これを繰り返し繰り返しして行くうちにです。おかげ頂けれるようになると思うのですよね。どうぞ、おかげ頂かねばなりません。
今日ですね、あの、長男が朝の御祈念のあとに、今朝から御夢を頂いておる。そして御夢の中に誰かの、お言葉で、こんなことを頂いておるんですね。「一刻一刻が死んでおる」と、過去の今までの宗教というものは、皆、一刻一刻が死んできた。ですから例えばまあ、○○教とか、いわゆる何々教団といったようなものがです。何十年の歴史があるような宗教があっても、一刻一刻死んで行っておるから。
残骸的な宗教しか残ってないわけです。生きとるものが残ってない。金光さんのご信心はです、一刻一刻が生まれてくるという。お言葉を頂いておる。一刻一刻が生まれてくる。「日に日に生きるが信心なり」と、今日、そういうことを仰った。だから、そういう、んなら、有難い生き生きとした信心さして頂いておるからですね、ほんなら生きておるかというたら、あながちそうではないと。
今の金光教の教団が、果たして一刻一刻死んで行っておることは無かろうかと。(きゅうしつきょう?)に、だして言っておるようなことはなかろうかと。思うときです。改めて、私は、この一刻一刻が生まれてくるようなおかげというものがです。一刻一刻がです、この生れていくうちに一刻一刻が生きたものが生まれてくるということになってしまうんだと思うんですね。
どうぞおかげ頂いてください。